私の健康回復記・C型肝炎からの脱出

Saturday, February 12, 2011

福岡での生活

平成5年4月に長年住んでいました鹿児島から福岡へ転勤となりました。俗に営業所長より福岡の管理部門へ変わり少しは楽になったようでしたが、身体の方はパンクしそうな感じだったようです。
右股関節はかなり固まったような感じがしていました。歩くのがきらいでいつも近道ばかりを考えていました。
疲れはたまる一方で土日休み明けの月曜日は起き上がれず会社を休むことが多くなりました。目、頭、肩にずっしりと重石を付けたような感じで休んで午前中いっぱい布団の中ということを毎月経験していました。
健康診断でも肝臓の悪さを指摘され、とうとう済生会病院へ通院加療することになりました。

ところが平成9年に忙しくなさそうでたいへん忙しい事務局へ長として部を変わりました。この少し前から腰と背中に力がはいらなくなる症状がでていました。バスで通勤中に座席が空いたので座ろうとしましたら腰を落とすことができず座れない体験をしました。そして、部門が変わった途端にぎっくり腰になりとうとう歩けなくなりました。
休み中は這ってトイレへ行っていましたが、会社の関係者から整体を紹介されました。最初はなんだ整体かと思いましたが、まさかここが救いの船になるとは思ってもいませんでした。

肝炎

長男の誕生や仕事も順調だった30代前半でしたが、なぜか疲れやすかったようです。その頃健康診断で肝臓関係の値が高いと指摘されました。
独身時代に入った掛け捨ての生命保険をワイフが解約し、他の貯蓄型の生命保険へ入っていましたが、再び保険会社を換えるときに肝臓で引っかかってしまいました。2回ほど血液検査をした挙句、生命保険会社から断られてしまいました。

そんなに悪くはないよと思っていましたが肝臓の値は下がるどころか毎年上がっていました。その頃はワイフが「ごおう」という高い薬を買って飲まされていました。ピンポンボールより半分くらいの大きさで金紙に包んでありました。ナイフで16等分に切って1日人切りを飲んでおりました。

実際には日曜日は疲れが取れず昼前、昼過ぎ、夕方まで寝ていることもありました。起きてもかえって疲れだたまっている感じがしていました。
30代後半に入ると精神的にも少しおかしくなってきたようでした。骨折した方の右足よりも、それを支えている右足の方が張りが激しく長い時間立っていたり、買い物で見て回ると痛いほどでありました。不機嫌になっていつもワイフと行動せず先に車に戻ることが多かったようです。まともに2人で買い物をすることがほとんどなくなったようでした。

30代後半には責任ある職階になりましたが、やはり今から考えるとたいへんキツイ思いをしたようでした。肝臓もはっきりと「輸血による肝炎」と診断されるようになりました。

5年振りの投稿

見事に2006年1月に投稿した文書を無くしていました。
本日5年振りに発見し、続きを書くことにします。

事故から5年後の昭和51年に熊本へ転勤し、初めての単身の生活が始まりました。すぐに不慣れが出て食生活が乱れたせいか、平均して65kgの体重が53kgと下がってしまいました。そして今から考えると昭和52年くらいから右大腿部の筋肉が落ち始め、右股関節の曲がりが悪くなってきたことを記憶しています。右股関節が固まり始めました。そして55年から営業となりましたが、56年9月頃から鹿児島のホテルに宿泊していましたが朝起きができなくなり朝食を抜いたりするようになりました。

この頃から朝は起きれないことが多くなりました。事故にあい手術して丁度10年後でありました。

仕事は順調でしたが30歳代に入り鹿児島営業所の設置のため鹿児島へ転勤となりました。そして、今のワイフに出会い、昭和58年10月に結婚しました。31歳です。

Monday, January 16, 2006

私の自己紹介

私は福岡市に住む54歳の男性です。
昭和46年6月のある日、友人の車に4人乗りにて通学途中に車がカーブで曲がりきれず横転して川の土手に落ちたそうです。運転席の後ろに乗っていた私は気を失って河原に横たわっていたようです。「足が折れてる」と言う人の声が聞えましたが、朦朧としていてすぐに気を失ってしまいました。

気が付きましたら救急病院のけが人運搬車に横たわっていました。履いていたジーパンをはさみで切り裂いていたことを朦朧とする意識の中で覚えています。

私は大学2年の19歳でありました。
ここから私の健康の回復と転落、そして2度目の回復チャレンジの物語が始まります。きっと同じような環境の方がおられると考え、役に立つことを信じて恥ずかしさも顧みずプログに掲載することにしました。